ゲノムは誰のもの? 進む生命の特許化

参照:日経サイエンス2006 6月号 G.スティックス著

 
 
 人間の細胞にはおよそ2万4千の遺伝子がある。2005年半ばの時点までに、米国特許庁はこのヒト遺伝子の約20%についての特許を企業、大学、政府機関、非営利団体に認可している。マサチューセッツ工科大学のFiona MurrayとKyleL.Jensenが発表した研究によれば、米国立バイオテクノロジーセンターのデータベースにある2万3688の遺伝子のうち4382に対し、すでにそれぞれ1件以上の特許が付与されているようだ。こうしたデータを見ると生命の特許化はすでに当たり前になっていることが良く分かる。だが多くの人の目には、これは奇妙で不自然で厄介なことに見える。それは遺伝子を作っているのは人間ではなく自然なのに、知的財産権を主張できるのか、これまでに見つかったガンなどの遺伝子が特許化されるというのならオープンであるべき科学研究はどうなるのか、といった疑問である。

 倫理学者や裁判官、科学者、特許審査官は遺伝子特許をめぐる議論に多くの時間を割いている。生命は誰のものか、その問いは今に始まったものではないが、1980年、米最高裁で生物特許をめぐる歴史的な判決(Ananda M.chakrabartyが遺伝子操作をして生み出した特殊なシュードモナス菌の特許申請をめぐるもの)があった。その歴史的判決とは「人の手が加えられた場合に限り、人間が作った生物としてみなして、特許を与える」と言うものであった。最高裁判官は、環境活動家達による反対意見を退け、ジェネンテックからカリフォルニア大学の評議員にいたる多数派の意見に従って、「人間によって作られたこの世の全てのもの」を特許化できるとした。この判決以後、企業や大学はチャクラバーティーの事例を拡大解釈し、遺伝子だけではなく、あらゆる生命体、さらには幹細胞をはじめとする全細胞の特許をも正当なものと考えるようになった。

 1990年代になり、科学技術が猛烈な勢いで発展しゲノム解析技術もめざましい勢いで進化していった。そして、同時に化学物質特許と同じ考えで遺伝子特許を捉えることに疑問が生じてきた。ある時、ESTと呼ばれるDNA断片に関する特許を研究者達が出願し始め、一度に数百も申請すると言ったケースがあった。ESTは発現配列タグと呼ばれるDNA断片で、染色体の中から遺伝子をすばやく探し出すツールとして用いられているものである。この研究者達にはESTだけでなく、その周辺のDNAの権利を主張しようという大胆不敵な意図があった。DNA配列やその働きそのものに関する権利を得ようとする動きだった。しかしそれは単なる「情報」にしかすぎず、特許にはなじまないといった批判が起きた。情報に特許を与えると、特許の基盤である「過程、機械、製造、組成」の概念が揺らぐことにもなりかね」ないからである。このような批判を受け、米特許庁はバイオテクノロジー関連の特許を認める場合に「特異的で十分な有用性」の判断を審査官に求める新ガイドラインを作成した。この変更はきわめて効果的で、現在までに認められたEST関連の特許はほんのわずかだという。

 米国の政策立案者と裁判所は、新しいバイオテクノロジーの商業化に制限を加えない方針をとってきた。政府の諮問委員会では、倫理や哲学、社会学的疑問が頻繁に論議されてはいるものの、特許による保護を生物にまで広げるかどうかの意思決定を実際に行うことはほとんどなかった。チャクラバーティー判決から生まれた明らかな疑問は、生命の特許化をどこで止めればいいかということだ。法律アナリストたちは、今年最高裁がある判決を下すのを待っている。それによって、かっては特許化できないと考えられていた境界線がどこまで後退するかが明らかになるからだ。その裁判とはラボラトリーコー・ポレーションが発見して特許を所持している、「2種のビタミンB欠乏症とアミノ酸ホモシステイン値の上昇の間の単純な相関」について、「医師が検査結果をみて関連性を考えるだけで特許権侵害になる」と主張したものである。この特許の請求範囲がカバーしているのは相関関係そのものだけで、検査に使う電気器具や機器は含まれていない。加工前の情報の価値が高まっている現在、この事例についてバイオテクノロジー企業に留まらず、多くの産業の分野からも注目が集まっている。しかし、2つの分子の相関から診断を下すといった単純な操作は20年の独占の権利を、与えるに値するものなのだろうか。


*カナダやヨーロッパなどはアメリカほど実利に走らず、法を制定するなどして特許化に歯止めをかけている。