ヒトゲノムの光と影

1、ゲノム情報から新しい薬を作る

―アイスランドの科学者カーリー・ステファンソン博士との対話

●カーリー・ステファンソン博士は、1996年にデコード・ジェネティクス社というバイオテクノロジー企業を設立し、アイスランドで国民健康医療データベースを作成した人物である。国民健康医療データベースとは、アイスランド国民の遺伝的特性および遺伝情報ならびに家計図などの情報と、全国民の医療データを組み合わせたデータベースのことである。

国民健康医療データベースの意義

 −遺伝情報をデータ化することにより病気の原因遺伝子を突き止めることが目的。原因遺伝子を発見することができれば、従来とは比べ物にならないくらい的を射た治療や、予防や診断が可能となる。

なぜアイスランドか?

 −なぜアイスランドという国でこの事業を始めたのかと言うと、遺伝的等質性という環境にその理由はある。長い間、他国民の流入のなかった隔離された島国では、どうしても傾向として人々は遺伝的に等質になってくる。そのため、特定の疾患に関連する突然変異も少なくなる、すなわち病気の原因遺伝子と突然変異を発見しやすくなるのである。

 ⇒新薬開発にとても有利な環境(日本もこれに当てはまる)

テーラーメード医療

 −薬の効き目は各人の遺伝的性質によって変化する。各人の遺伝情報にあわせた薬物提供が、このデータベースの目指すところである。どの患者にはどの薬物が効き目があり、どんな副作用が予想されるか、ということが事前に分かれば非常に効率的かつ効果的な治療を行うことができるのである。

日本の環境はとても有利だが・・・

 −上記にあるように、遺伝的に均質な集団を研究することが遺伝学においては重要なのである。ということで、日本と言う国は遺伝情報や薬品の研究においてとても有利な環境にあるといえるのである。

―しかし、日本のバイオテクノロジー企業や、製薬会社はこういったゲノム研究に対して積極的ではない。事実、ヨーロッパやアメリカに比べて日本のゲノム研究は遅れている。その原因は2つあるとカーリー氏は語る。

―原因の1つ目は、製薬業界が投資の際に非常にリスク回避を行うことだと言います。日本の経済全体に言える事だが、各国が入り乱れるような大きな競争になりそうな市場への介入は極力避けたがるという日本企業の性質に問題があるということである。2つ目の原因は人々へのしっかりした説明をし、国民の同意を得るということ、いわゆるインフォームド・コンセントの制度が整っていないことだと言う。

 (注)このインタビューが行われたのは5年ほど前のこと

ゲノム創薬は人種的境界を越えて、世界的人口集団の適用できる。

―ヒトとマウスの間でさえ遺伝子の相違はほとんどないので、例えば日本人で研究したデータを他の国の人間に当てはめることは十分可能なのである。遺伝情報に基づいて創り出される薬剤は人種的境界を越えるということ。

2、人は遺伝子のみによって作られているか

 −アイスランドの非政府組織の代表アイナール・アルナソン氏との対話

●アイナール・アルナソン氏は非政府組織・マンバーントの代表で国民健康医療データベースなどの、遺伝子情報の管理に反対している。国民健康医療データベースは国民を番号で管理する非人道的なシステムと指摘

人は遺伝子のみにて作られていない

―アイナール氏は、人は4つの主要な発達からできた産物だと言います。その4つとは遺伝子、環境、卵子から成る固体、固体に起きる偶然の変異のことだといいます。人間の多様性は遺伝子の多様性だけが理由ではなく、環境の多様性、固体に生じる変異の多様性など様々な要因に依るものです。

誰の遺伝子も異常?

―どんな人間のゲノムも約30億個の塩基対ベースとしている。そしてこの約30億個の塩基のうちには、かなり個人差を示すものがある。これはヒト人口集団にはこれほどの数の遺伝子の変異があり、どの個人の遺伝子も唯一のものであることを意味している。

全ゲノム配列の把握の代償

―全ゲノム配列を完全に知ってしまえば様々な問題が発生すると、アイナール氏は語る。その例としてまず妊娠中絶を彼は挙げた。生まれたての胎児を、こういう遺伝子があるから中絶しよう、というような軽率な中絶がたくさん行われるようになる。また民族の遺伝的な特性がわかってしまうことで特定の民族への差別が起きる。

ゲノムプロジェクトは国民の利益が第一、ビジネスは二の次であること

―ゲノムプロジェクトは国民のためであって企業のためではない。各人の遺伝情報を提供することで貢献している個々人の利益を第一に考えなければならない、とアイナール氏は語る。

3、保険会社は遺伝子産業の主役になるか?

―欧州保険委員会本部長フランツ・ジョゼフ・ワール氏との対話

保険会社が遺伝子スクリーニングを行う。

―保険会社が遺伝子スクリーニングする時代は必ず来る、と欧州保険委員会本部長のフランツ氏は語る。10年後には、自分自身で検査するためのツールを薬局で購入できるようになり、現在の健康診断は遺伝子診断に取って代られてしまうという。彼は保険会社にはリスク評価の権利があるという。保険会社ができるだけ多くの情報を得ようと思うのは公正なこと、というのもそれは競合のためだという。

診断と保険料

―遺伝子スクリーニングで病気が判明しているのに保険料は普通の人と同じでは公平にならない。なぜならその人の保険料の損失は他の被保険者が支払うことになるからである。それに、自分が数年後に死ぬことを知っている人間が高額の保険を申し込むのは詐欺行為だと言える。

現在、保険加入の際に遺伝子スクリーニングを必要とされることはまずない

―遺伝子スクリーニングの結果によって、特定の人間あるいは一族が差別される可能性や、スクリーニングによってしりたくなかった体質などをしってしまう危険性があるため、まだ保険会社に遺伝子スクリーニングは導入されていない。しかし、これからの時代遺伝子情報が保険の世界にも大きな影響を与えていくことは間違いなさそうだ。

4、医療のニューウェーブ

 −オックスフォード大学学長ウォルター・ボドマー卿との対話

製薬業界の変化

―薬剤に対するヒトの反応の仕方には明らかな違いがあり、これは遺伝子が根拠になっている。しかし以前の製薬業界は、各人に適した薬を適した方法で提供すると言うテーラーメード医療に対して、市場を縮小させる危惧から、積極ではなかった。しかし現在では大いに意識が変化したと言う。その原因には一般市民や臨床医からのプレッシャーが挙げられる。また以前開発した効果はあるが、副作用が強い薬をリバイバルすることができるかもしれないということも大きかったようだ。

特許戦争

―DNA情報についての特許が盛んに取得されているが、DNA配列の結果それ自体に特許をとるのはおかしい。利用権にのみ特許与えれば良いとボドマー卿は語る。アメリカの遺伝子ベンチャーのように、人々が貪欲に、高すぎるライセンス料を請求することを卿は批判する。

5、遺伝子診断ってどんなもの

 −福島義光医学博士との対話

4通りある遺伝子診断

―遺伝子診断には4つの種類がある。診断の確認を目的として行う場合、生活習慣病の発症リスクを予測する場合、家族性遺伝病の発症の予測を行う場合、そしてガン細胞やウィルスの検査をする場合の4種類である。だが、必ずしも全ての遺伝子診断に意味があるわけではないと福島博士は語る。

⇒生活習慣病のリスク予測・アルツハイマーなどの対策のない病気

はじめに遺伝子検査ありきではない

遺伝子検査の結果は必ずしも患者にいい結果をもたらすわけではない。知らなくてもいい自分の体質や、どんな病気にかかりやすいかということを知らされれば、むしろ不安が広がるだけだろう。民間の遺伝子ドッグではそういうことに対する適切な説明もないまま遺伝子検査を行っているがそれはあまり良いことではないと福島博士は言う。

遺伝子診断はプラスαの医療

―遺伝子診断が特に効果を発揮するのは結核菌のDNA検査や、ガン患者が治療を行った後に、ガン特有の遺伝子の配列が残っていないか、検査するときなど限られた状況なのです、と博士は語る。現時点では遺伝子診断の有用性はそれほど高くはないようだ。しかし、遺伝子が病気に関係しているという意識が民間にも悪いことではありません。遺伝情報の扱いが真剣に議論されるようになってきたには良い傾向だと、博士は語る。